協 会 案 内
郡山市バドミントン協会規約
第1章 名称および事務所
- 第1条 本会は郡山市バドミントン協会と称する。
第2条 本会の事務所は事務局宅に置く。
第2章 目的および事業
- 第3条 本会は郡山市のバドミントン愛好者が集い、健康増進と親睦交流を図り、バドミントン競技の健全な健全な普及と技術の向上を目指すとともに楽しいスポーツの実践と趣味の涵養するをもって目的とする。
第4条 本会は前条の目的を達するために次の事業を行う。- 郡山市のバドミントン大会の開催
- バドミントンの普及発展ならびに技術の向上に関する研究指導
- その他本会の必要と認めた事項
第3章 組織
- 第5条 本会の趣旨に賛同する次の者をもって組織する。
- 郡山市のバドミントン団体および愛好者
- バドミントンの知識技能を有する個人
第4章 役員
- 第6条 本会に次の役員をおく。
- 会長 1名
- 副会長 若干名
- 理事長 1名
- 副理事長 若干名
- 理事 若干名
- 監事 2名
- 顧問 若干名
- 参与 若干名
会長は本会を代表して会務を統括し、副会長は会長を補佐し、会長事故ある時はその職務を代行する。
理事長は大会運営の責任者となる。理事は会務を執行する。監査は本会の財務を監査する。
第8条 会長は総会の承認を得て名誉会長若干名、顧問若干名を委嘱することができる。
第9条 役員の会議(以下役員会)は、会長が招集し議長となり、出席者の過半数の同意を得て決定し、可否同数の時は議長が定める。
第10条 役員の任期は2年とする。ただし、再選は妨げない。
第5章 会議
- 第11条 総会は毎年1回会長が招集し、議長を選出して次の事項を審議決定する。
ただし、必要に応じ臨時に召集することができる。- 予算決算
- 規約の改正
- 行事の決定
- 役員の選出
- その他
第6章 会計
- 第13条 本会の経費は次に掲げるものでこれに当てる。
- 参加費
- 補助金
- その他
付則
- この規約の変更は、総会における出席者の過半数の同意を得なければ変更することができない。
本規約は昭和50年4月1日実施する。- 平成16年6月12日全文改正
- 平成17年5月28日一部改正
- 平成21年4月19日一部改正
- 平成24年3月24日一部改正
- 平成27年4月17日一部改正
協会のシンボルマーク
協会のシンボルマーク決まる
- 平成19年7月29日の郡山市バドミントン協会の理事会で、新潟県上越市から公募くださった金津博様のデザインを今後の協会のシンボルマークとして採用させて頂く事に決定いたしました(上に掲載のデザインです)。
- 金津様のシンボルマークは
郡山市の頭文字「K」はバドミントンのプレーをする郡山市民、シャトルと円で協会の和を表し、 緑は豊かな自然と大地を、青は空と水を、赤は協会の情熱、飛躍、発展を表すというコンセプトで作成されたとのことです。
色彩のバランス、躍動感あふれる表現は郡山市バドミントン協会のシンボルマークとしてふさわしいものとおもいます。
このシンボルマークは今後、協会の旗の作成、表彰状、協会が発行するすべての文書の中で使用させていただくことになります。 - シンボルマークが決定するまでのいきさつ
- 郡山市バドミントン協会創立40周年の一つの行事として、郡山市バドミントン協会のシンボルマークをつくることになりました。
このマークは今後、文書はもちろん協会の旗を作る時にも使われます。
40周年記念実行委員会では、まず、シンボルマークの素案を、協会会員である額賀治様に作って頂きました。
このマークの色は郡山市のシンボルである水の青、森林の緑、そして情熱の赤を基調としていました。
昨年の理事会でこの素案について検討した結果、もう少し、若い人達に魅力的なシンボルにしてはどうかという、特に若い理事からの意見があり、額賀様のシンボルを元にしていただき、さらに魅力あるデザインを公募する事になりました。
そこで公募期間を平成19年5月1日から6月30日までの2ヶ月間とし、公募をホームページに掲載いたしました。
その結果、郡山市から1名、福島県外から2名の応募がありました。
それぞれにすばらしいデザインでした。
公募くださった皆様方、本当にありがとうございました。
心からお礼を申し上げます。
郡山市バドミントン協会
創立40周年実行委員会
協会の歩み
郡山市バドミントン協会のあゆみ
この郡山市バドミントン協会小史は、当協会の山本会長が「郡山市体育協会創立50年記念誌」に投稿した原稿に基づいている。
昭和46年から当協会を支えてきた山本会長の簡潔な記録でもある。
事務局
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昭和50年 第3回議長杯 プログラム表紙 会場は郡山女子校体育館、 郡山商業体育館 |
昭和53年 第3回会長杯 プログラム表紙 会場は安積商業体育館 |
昭和54年 第1回理事長杯 プログラム表紙 会場は三菱電機の体育館 |
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昭和51年 第1回会長杯のプログラム表紙と大会役員名 |
郡山市におけるバドミントン活動の歴史
○創立年月日 | 昭和42年(1967年) | ||||
○歴代会長名 | 初代 | 斉藤 円三 | 昭和42年~45年 | ||
2代 | 遠藤 忠夫 | 昭和45年~48年 | |||
3代 | 原 正 | 昭和48年~61年 | |||
4代 | 原 正夫 | 昭和61年~平成17年 | |||
5代 | 山本 智夫 | 平成17年~平成22年 | |||
6代 | 譽田 克彦 | 平成23年~ |
郡山市のバドミントンは戦後まもなく、活動しはじめたようで、昭和25年?30年頃には唐沢啓喜さん、渡辺哲吉さん等がプレーヤーとしてまた指導者として活躍していた。
柄沢さんは昭和27年から31年まで県協会の理事長に就任している。
昭和26年の第1回全日本高等学校バドミントン選手権大会には福島県代表の監督として渡辺哲吉さんが安女(現安積黎明)を率いて出場している。
また、国体には昭和26年と29年に成年女子監督として出場した。
柄沢啓喜さんは昭和29年に少年女子監督として出場し優勝している。
また、昭和30年に成年女子監督として出場し優勝をはたしている。
このように、県バドミントン界の黎明期には郡山の大先輩方が活躍し、輝いていたことがうかがえる。
そのころ、国鉄郡山工場(現JR)・日東紡績・日大を主体として約30名くらいの方々が練習や試合を楽しみ愛好会として活動していた。
国鉄郡山工場は昭和36年倉敷市で開催された全日本実業団大会へ出場した。
高校では安積女子(現安積黎明)・郡山女子(現郡山東)・郡山商業・郡山工業(現郡山北工業)・安積商業(現帝京安積)などが部活動を行っていた。
郡山市バドミントン協会は昭和42年に発足し、同時に郡山市体育協会に加盟した。
加盟した年より市民体育祭に参加するようになった。
協会として昭和49年から市長杯・議長杯を行うようになり、さらに昭和51年から会長杯、昭和54年から理事長杯を開くようになった。
それぞれの大会も30回以上となっている。
その頃、三菱電機郡山は昭和51・52・55・57年と全日本実業団大会へ出場した。
平成7年の福島国体はバドミントンは成年男女優勝・少年男子準優勝・少年女子5位となり総合優勝という輝かしい成果をおさめた。
これを契機に一段とバドミントンを目指す子女が増加し国体強化コーチだった高美鳳さんが郡山に残り、小椋起佐子さん(当時行健小教諭)の肝いりでGPWというクラブを作り、小中学生を集め高美鳳さんに指導を受け始めた。
その成果は見事で、以降中学・高校の上位選手はGPW出身者がほとんどである。
いかに優秀な指導者が必要か思い知らされている。
高校では帝京安積男子がインターハイ常連高として全国の注目を集めている。
橋本遊二監督・二瓶 良コーチ率いるチームは平成11年から7年連続9回目の出場記録を作っている。
高校の発展を支えてきた先生として安高の佐藤登彦先生・尚志高校の林要一先生・郡商の故伊藤孝雄先生・帝京安積の橋本遊二先生などがあげられる。
女性の方々のスポーツ愛好者が年々増加し、昭和56年には家庭婦人連盟が増子トキさんらの努力で結成された。
おかげで、当協会の行事に参加する女性が増加したことは喜ばしい限りである。
現在では、郡山市在住のレデイース連盟(発足時家庭婦人連盟)の方がたが全国大会に多数出場している。
中学校は現在協会傘下にはないが、市民体育祭の中学生の部には毎年一日では消化できないほど参加者が多い。
中学校の現在の隆盛の基礎を作った鈴木鑑爾先生の努力に負うところが大きい。
このように、戦後初期から現在に至るまで多数の人々に支えられ、郡山市バドミントン協会は発展を続けてきた。
今後もたくさんのバドミントン愛好者に支えられ益々発展をすると信じている。
役員
名誉会長 | 山本 智夫 |
顧 問 | 増子 トキ |
参 与 | 譽田 澄子 |
会 長 | 添田 喜紀 |
副会長 | 國分 清一 |
副会長 | 添田 尚也 |
理事長 | 車田 俊二 |
副理事長 | 村越 要蔵 |
副理事長 | 浦山 健治 |
理事 | 吉田 晋 |
理事 | 宗像 千代里 |
理事 | 添田 幸子 |
理事 | 斉藤 雅子 |
理事 | 川井 京子 |
理事 | 渡部 笑 |
理事 | 笠間 秀一 |
理事 | 増子 巳貴 |
幹事 | 渡邉 知彦 |
幹事 | 吉村 芳子 |